こんばんは。お疲れ様です。
今回は島崎藤村の「初恋」の謎な部分について
綴りたいと思います。
この詩を検索すると、意味、形式、藤村の
ポンコツな(失礼)エピソードが出てきますが、私が気になるのは、そのあたりでは
ありません。
私が気になっているのは
「藤村はリンゴ畑を見ていないのに
あの詩を書いた」のでは?
というあたりです。
これは全く私だけの独自の視点です。
なぜそう思うのか?
少しずつ説明します。
先ず、藤村の「初恋」を発表するまでの
生い立ちを簡単に…
1872年(M5)現在の岐阜県馬籠で生まれる
1881年(M14)上京
1892年(M25)明治女学校の教師となる
1896年(M29)東北学院の教師となる
1896年(M29)「初恋」発表
藤村は0〜9歳までは岐阜に住んでいて、
9〜23歳までは東京に住んでいて24歳のときは
仙台に住んでいたと思われます
そして日本のりんご栽培について…
全国でリンゴ栽培の試作が始まったのが
明治7年なのだそうです。
リンゴは樹の形を作るだけで4〜5年を要し、
一本の樹が最大の収量になるまでは10年くらいかかるそうです。
リンゴ栽培が始まってから「初恋」が発表されるまで、約21年あります。なので、大きな樹のリンゴを見ることができます。
ただ、藤村が東京や仙台にいた頃は、東京や仙台ではリンゴ栽培は出荷できるほど発展していなかったみたいです。
それでは生まれてから上京するまでの間に見たのか? それもどうやら怪しいみたいです。
馬籠のリンゴ栽培はわかりませんでした。
でも、同県の高山市では明治10年に岐阜県から
試作栽培としてリンゴの木が贈られたそうです。そして、本格的に農産物となったのは、
大正時代になってからのようです。
それでは藤村が「初恋」を発表する頃に
足しげく通った長野県ではどうでしょうか?
同県の「中棚荘」は藤村のゆかりの宿として、有名みたいですね。
長野県ではリンゴ栽培は明治7年に
スタートしました。この頃の主要品種は
「Ben Davis」でした。晩生品種で
「善光寺のリンゴ」として初詣の時に売られていたみたいです。ただ、このリンゴは「不味い」と言われていたため、青森のリンゴ栽培に習って、昭和初期の頃には美味しいりんごが作られるようになったみたいです。
それでは「Ben Davis」を見たのか?
と思ったのですが、これもちょっと…って
感じです。なぜかというとこのリンゴは
「初恋」に出てくるような若い男女が樹の下で愛を育むという感じの幹ではないのです。
リンゴの実もずいぶん小さいみたいです。
(次の写メ日記に写真を掲載しました。
なるべくこの写メ日記の隣になるように
掲載しますね)。
まして、通い続けて「小道」ができるなんて
全く想像できません。
なんでリンゴの大きな幹の下で若い男女が…
なんて情景が浮かんだのかしら…
多分、藤村、大きなリンゴの木、
見てないですよね?
ご意見お待ちしています。
こんなに長い文に
最後まで読んでくださって
ありがとうございます。
それではまた… おやすみなさい
高倉 洋子